自分の顔。ぼくはそれを知っています。ふたつの目(細め)があって、その真ん中から少し下にいったところに鼻がある。さらにそこから3センチ下に口があります。いや、本当は口の下に鼻があるのかもしれませんが、鏡で見る限り、口は鼻の下でした。今朝確認したときは確かにそうでした。ヒゲを剃りながら見たので間違いありません。でも、そういわれるとちょっと自信がなくなってきます。実際に自分の目で直接確かめたわけではないので、、、。
自分の顔。自分とは一体なんなのか。この種の哲学的疑問にぼくたちがとりつかれるのは、主に思春期においてです。自分という不思議。我思うゆえに我あり。そしてぼくたちは大体15から25才くらいのときに、「オレはオレだ」的に、自分の存在を確認しようとあらゆる手段で挑むわけです。
昔のぼくみたいに、休み時間ごとにトイレに行って髪型をチェックしたり。『蛇にピアス』みたいに、舌をスプリットして痛みで自己存在の根拠を感じたり。ところが、そうやってちょっとずつでも自分を見つめようとするんだけれども、やっぱり結局のところ、自分の目では自分を見られない。固定電話の本体から受話器を引っ張ってクルクルコードがバーって伸びるみたいに、目を眼窩から引っ張りだしてクルッと自分の顔なんか直視しちゃった日には、あなたの辞書から「明日」という項目が失われことになります。そうですね?
自分で自分を見られない。見ようと自分に近づけば近づくほど死も近づく。人間存在の根本にあるこのジレンマは、ある種の人々にとっては相当魅力的に映るようです。自分を知りたいという好奇心のあまりに一線をこえてしまい、戻らなくなった人も少なくありません。鏡でじーっと顔を見ているあいだはいいですが、ゴッホのように耳を切って自分で確認したり、窪塚洋介のように飛び降りてみる人もいます。彼らと比べたらスケールが小さすぎて申し訳ないんですが、ぼくもワタミで爪楊枝の先で指をチクッとつつきながら、それだけで怖じ気づいて、もう自分を確かめるのはやめようとか時々思ったりしてます。
いくら耳を切り落として自分の目で見たところで、結局自分はおろか自分の顔の10%も確認できないのです。ぼくたちは、自分がどんな顔をしているか、死ぬまで(死んでも)この目では確認できない。さらに残念なことに、見たところで、事態はなにもかわらない。ぼくが両耳を切って「おれはゴッホだ!」と叫んだところで、橋下知事は人件費を削減しつづけるし、韓国人はキムチを漬けつづけるのです。
自意識の問題を、ゴッホと耳式に直接的なやりかたで追求するのもひとつの方法ではあります。しかしそれと同時に、ぼくたちはより間接的な方法で自分を証明できることも忘れてはなりません。(より間接的なこの自己証明のやりかたを、ぼくは「ゴッホと耳式」に対して便宜的に「フェラガモの靴式」と呼んでいます。)
家族、恋人、友人、そしてそこのローソンでレジを打ってるあの青年。なぜ彼らはあなたの周りにいるのか。この家、今使ってるPC、フェラガモの革靴、今の職場。なぜぼくはこんな狭い部屋に住んで、デザインで選んだMacに向かい、フェラガモなんかで靴を買って、明日も早起きして仕事に行くのか。いつもより5秒くらい時間をかけて自分の周りを見てください。周りの人やモノと自分との関係性。それこそがあなた自身であり、あなたの顔でもあるのです。
とても残念なことではあるのですが、フェラガモの靴式に自分以外のフィルターを通して自分を見ようとしたところで、結局はその関係性を言葉でパーフェクトに表現することは不可能です。原稿用紙8000枚分の言葉をもって「なぜぼくは2011年のクリスマス前にフェラガモに行ったか」について証明したところで、朝鮮半島ではやはり白菜が次から次へとキムチと化しつづけることでしょう。
ぼくにとっては、そういうことにだんだん気づいてきた2011年でした。今年からは「自分のもみあげが短すぎるかも」とか「なんで昨日東急ハンズであんなもの買ってしまったんだろう」とかを考えすぎるのではなくて、だいすきな地図をいっぱい見て、もっとポルトガル語を勉強して、世界中を歩き回ろうと思います。なんかそうしたいなーって急に思いました。
8月の那覇で雪が降り
韓国で最後のキムチが失われるとき
ぼくはぼくでなくなるだろう

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